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2003年12月20日皆さんは、問題が解けた時と解けなかった時と、どちらに喜びを感じますか?
こう質問された時、たいていの人は「解けた時」と答えるのでしょうか?
それは自分も例外ではなく、今まで解けなかった問題がある時解けるようになるのはやはり格別嬉しいものです。
ただ、喜びのベクトルの向きは違えど、問題が解けなかった時もある種の「喜び」を見出す時もあります。
むしろそっちの方が多いかも・・・と感じる時もあるぐらい。
ある問題が解けなかったということは、ややこしく言えば、自分がその問題を解くための能力を備えてなかったということ。
それは受験においては自分の弱点とも言えます。
自分の弱点が、解けない問題に数多く出くわす事により、たくさん現れます。
それを目の当たりにし、「こんなにあるのかよ・・・」とうんざりする人は、恐らく問題が解けない事に喜びを見出すことは出来ないのでしょう。
自分はこう考えます。
「この弱点を補えば、明日はこの問題を解けるようになる」
「この自分に足らない能力を補っていけば、明日の自分は今日の自分よりもっといい自分になる。」
つまり、自分が完璧であるがゆえにやる事がなくなる状態が退屈で仕方なく感じ、逆に、自分にとって足りない部分が分かることでそれをエネルギーにし自分を奮い立たせる。
自分はどうやら、そういうタイプの人間のようです。
要するに、10枚の皿を洗うのより100枚の皿を洗うことに喜びを見出すということ。
もっと簡単にいえば、M(←fontで強調したいぐらい)なんでしょう(笑)
人がさじを投げるような無理難題を押し付けられることが嬉しくてしょうがない。
「絶対無理だから!」と言われることが、何よりに自分の活力になる。
・・・でもこれって、単なる天邪鬼なんですよね。
受験勉強なのに次々と自分についての色んな発見がある。
屁理屈をこねくり回してるだけの、なんかよくわかんない日記ですね。
こう質問された時、たいていの人は「解けた時」と答えるのでしょうか?
それは自分も例外ではなく、今まで解けなかった問題がある時解けるようになるのはやはり格別嬉しいものです。
ただ、喜びのベクトルの向きは違えど、問題が解けなかった時もある種の「喜び」を見出す時もあります。
むしろそっちの方が多いかも・・・と感じる時もあるぐらい。
ある問題が解けなかったということは、ややこしく言えば、自分がその問題を解くための能力を備えてなかったということ。
それは受験においては自分の弱点とも言えます。
自分の弱点が、解けない問題に数多く出くわす事により、たくさん現れます。
それを目の当たりにし、「こんなにあるのかよ・・・」とうんざりする人は、恐らく問題が解けない事に喜びを見出すことは出来ないのでしょう。
自分はこう考えます。
「この弱点を補えば、明日はこの問題を解けるようになる」
「この自分に足らない能力を補っていけば、明日の自分は今日の自分よりもっといい自分になる。」
つまり、自分が完璧であるがゆえにやる事がなくなる状態が退屈で仕方なく感じ、逆に、自分にとって足りない部分が分かることでそれをエネルギーにし自分を奮い立たせる。
自分はどうやら、そういうタイプの人間のようです。
要するに、10枚の皿を洗うのより100枚の皿を洗うことに喜びを見出すということ。
もっと簡単にいえば、M(←fontで強調したいぐらい)なんでしょう(笑)
人がさじを投げるような無理難題を押し付けられることが嬉しくてしょうがない。
「絶対無理だから!」と言われることが、何よりに自分の活力になる。
・・・でもこれって、単なる天邪鬼なんですよね。
受験勉強なのに次々と自分についての色んな発見がある。
屁理屈をこねくり回してるだけの、なんかよくわかんない日記ですね。
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